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精神が壊れるまで積極的に懐疑していけ

googleで「懐疑主義のパラドクス」と検索すると一番上に出てくるサイトを読む。
やばい。懐疑主義者そんな前からいるの。やばい。

懐疑主義者のやばさは伝わっただろうか。
懐疑主義者は全てを疑い尽くす。

それはいい。

デカルトの方法的懐疑だ。
そこまではいい。

だがしかし。
懐疑主義者が「論理性」までも疑い始めたらどうなるだろうか。
論理性の上に構築される哲学において、論理性までも疑う。
やばい。懐疑主義者やばい。

論理性を疑った結果どうなるの?
こたえ:「・・・(沈黙)」

そう、待っているのは沈黙だ。
論理性を疑うことにより、語ることすらできなくなってしまう。

さっき名前出したけど、デカルトは「我思う故に我あり」って主張したじゃん。
「故に」ってのが思いっきり論理性出してるよね。論理性も疑えや。

そこで、論理性も疑った上でコギトエルゴスムはどうなるか。

論理性を解体し、純粋な直感として「我あり」。
我思うをつけたいなら、「我思い、かつ我あり」。

論理性までも疑ってこの先どうすれば・・・と思っていた僕に電流走り、この答えに達した。

その後に気付く。
スピノザ「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」

ファッ!?!?!?!?!?

これだああああああああああああああああ

ぼくは スピノザ と おなじきょうちに たっした。

この瞬間はめっちゃ感動した。涙出るかと思った。
完全に行き詰っていた僕の哲学が、まるで栓が取れたかのように、一気に流れだした。
これに達した時のぼくのツイート:

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

しかし俺に電流走る

懐疑主義で「論理性」までも排除して何が残るんだって思ったけど、そこには純粋体験みたいな、透明な精神みたいなものが残ってる 我思う故に我ありの我思う故にの部分いらなくて、ただ純粋に「我あり」でいいんだ 論理性を排除した真理


スピノザが同じプロセスでこれに達したかは知らない。
今の哲学、ポストモダンは「我なし」というような、諸法無我の立場に近いという。

だがッ!!!!我は、『有る』ッッッ!!!!!!!!!!!

やったぜ。

デカルトのコギトは、クオリアの発見でもあるから好きなんだよね。
個人の意識の発見。

個人の意識に関することは、西洋よりインドの方が数万歩先行ってる。デカルトとシャンカラめっちゃ似てる。
だからインド哲学学びたいんだよね。

でもさ、インド哲学って論理的思考の裏付けあるの?
調べても論理的な部分が見つからないし、インド人は直感的なイメージある。数学においてとか。
西洋のそんな先行ってるの怖すぎでしょ。直感的なとこ多いんじゃねえの。よくわからんけど。よくわからんから大学で印哲学びたいです。



そんなある日。
哲学の行き詰まりが完全に解消された僕は、興奮してブログ再開する。
というか

論理性を解体し、純粋な直感として「我あり」。

これを書きたくてブログ書いたんだよね。
ふーっ、疲れた。これでブログ書くことなくなるんじゃね?



そして理性の悪魔が僕に囁く。

「純粋な直感は疑わなくていいの?」





僕は死んだ。
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縦令真理を教えてくれる神がいようとも、それの語ったところは僕にとっては真理ではないのです。

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