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アウグスティヌスとウィトゲンシュタイン

quid est ergo tempus? si nemo ex me quaerat, scio; si quaerenti explicare velim, nescio.(アウグスティヌス・告白より引用)
私は時間について問われないとき、それが何かを知っている。だが問われるとき、私はそれが何かを知らない。

Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.(ウィトゲンシュタイン・論理哲学論考より引用)
語りえぬものには、沈黙しなければならない。



アウグスティヌスは西暦400年頃の人物、ウィトゲンシュタインは1900年代の人物なので、2人の間には大きな時代的隔たりがあるように感じる。
しかし、上に引用した文を読んでみると、とても近いことを言っているように思える。
単純に読解すれば、アウグスティヌスの主張は「聞かれたら答えられない(≒沈黙しなければならない)」となる。これだけでも2つの類似性は読み取れるだろう。

しかし、本質はまた別のところにある。

ウィトゲンシュタインの哲学は前期・後期に分けられる。
論理哲学論考は前期の出版物である。
では後期の主張とは何か。
彼は、「言語ゲーム」なるものを発見した。
端的に述べれば、「言語というものは日常的コンテクストでのみ使用でき、哲学的コンテクストでは機能しない」という主張である。
例えば『時間』という言葉について。
時間とは何か、という問いは、哲学史のなかで繰り返し議論がなされてきた題である。
遡れば古代ギリシア、そのころから論じられてきたのになぜ解決されていないのか?
言語ゲームという概念は、それに一つの答えを出すことができる。
つまり、『時間』という言葉は、日常的コンテクストの上でのみ機能する。時間とは何か、という本来の用法からかけ離れた哲学的問いの上では機能しない。

このウィトゲンシュタインの主張を理解した上で、もう一度アウグスティヌスの言葉を読んでもらいたい。

私は時間について問われないとき、それが何かを知っている。だが問われるとき、私はそれが何かを知らない。

「時間について問われないとき」=日常的コンテクスト、
「問われるとき」=哲学的コンテクスト

このように理解できないだろうか。
一度哲学的コンテクストの中に組み込まれた言葉は、本来の用法から隔絶されて、まったく別のものになってしまう。
「時間とは何か」と問われた時点で、時間という言葉はそのコンテクストにおいて既知のものから未知のものへと変容してしまう。


プロセスは違えど、同じ結論に達するということは哲学においてしばしばある。西洋と東洋を比較すれば一目瞭然だ。まあ、プロセス自体同じ、なんてこともある。
ブログタイトルの「プルシャとプラクリティ」は、霊肉二元論の東洋的な概念だ。
インド哲学は西洋哲学のだいぶ先を走っている感じがあるので、インド哲学に対する興味が日々増してる。だが独学はきつそうだし、大学は周りに止められる。どうしたものか。
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縦令真理を教えてくれる神がいようとも、それの語ったところは僕にとっては真理ではないのです。

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