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ウィトダーニー

恥ずかしい話しながら、自分でウィトゲンシュタインについて言及していたくせに、ウィトゲンシュタインについて理解したのはついさっきです・・・(参考:アウグスティヌスとウィトゲンシュタイン

「意識のあるなし」を論じることについて。
そもそも、「意識」って言葉がどこから来たかってのを考えてみると、「ああ、自分が考えてるなあ・・・これに名前付けようかなあ・・・」って思った人が「じゃあ、イシキとでも名付けるか・・・」ってな感じで言葉作ったんでしょ(、多分)
だから、意識が脳の構成物質の電気信号によるウンヌンカンヌンだとしても、つまり唯物論が真だとしても、「イシキ」ってのは漠然と感じられて、というか土俵の外にいる。

つまり、イシキってのは漠然と「あーこれだなーー」みたいな共通認識で成り立っているわけ。
それを、哲学人間はイシキの持つ性質だとかに目を向けて、語の意味が「明確に定義される」わけではなく、雪だるま式に「曖昧な定義が膨らんでいって」しまった。
だから「イシキは外界とは断絶して存在して、世界は二元的である」みたいな言説が生まれ、それに反論するかたちで「イシキなんて虚妄、幻想だ」って主張がなされる。

ここで否定されたイシキってのは、あくまで”””””哲学的文脈”””””上のもの。(イシキは哲学的文脈の上ではなにやらゴチャゴチャした性質を持ってしまっており、その性質を否定されたということ)
だから、日常的文脈でのイシキは否定されていない、いやむしろされえない・・・とさえ思った。

で、そこから自分の考えは「唯機能論」に発展する。
イシキなるものが”ある”と認識する機能があり、論理性すらも機能であり、今考えているものも機能であり、すなわち「実在を論の外に追い出した分析」である。
イシキがあるかどうかは分からないが、それを感じさせる機能はある。そんな感じ。

この論は「実在」以外の全てを説明しうる。(というか実在についての議論を無視できる)
と思ってた。
少し考えてみると、どこかで「主体の存在」または「機能の存在」を前提的に含んでしまっている・・・
存在については言及したくないから、結局「何者かが存在する」という公理のもとでしか成り立たない・・・
いや、哲学なんてものはたいていこの公理に乗っかってるから、十分に意味は生み出しうるけど。
でも、逃げたくはない。

そう考えていて、そして少し振り返ってみた。
哲学的文脈の上の「イシキ」は、日常的文脈とは全く異なっていて、その哲学的文脈も機能で・・・
一切の価値判断をなくすと・・・・・・

哲学的文脈のイシキも哲学的文脈上の立派な言葉だ。

ここで電流走る
あ、これウィトゲンシュタインだ。
言語ゲームだ

なるほどね。。

で、記事書くに当たり言語ゲームについて調べてみると、

言語ゲーム(Language-game)とは、後期ウィトゲンシュタインの基本概念。
彼は後期の主著『哲学探究』において言語活動をゲームとして捉え、言葉の意味を外延(対象)や内包(共通性質)ではなく、特定のゲームにおける機能として理解すべきことを提唱した。

>特定のゲームにおける機能

なんだこいつ僕か

前も言ったけど、哲学的知識をとにかく貯めておいて、思考による実地的体験で「理解」するのが哲学ではいいと思います。


話題変更。
自分が「こいつは天才だ」って思ったのは、考えてみると、ダーウィンとニーチェくらいかな。今さっきの体験でウィトゲンシュタインも順位グイグイ上がってきてるけど。
ダーウィンは、自然選択とか、性選択とか、生物の活動を「目的論的にではなく」説明した。
これって実はすごいことですよ。
テレビとか見てると、いきもの番組で、「生き残るための知恵」とか「ナニナニするためにこのように進化した」とか平気で言ってるじゃん。今でさえまだそう言ってるのに、ダーウィンはもう全てを見抜いてた。
本当に、冷徹な、現実に向けられた眼差し。
時間の前後関係による優劣判断でさえも否定している。

だって、目的論的解釈による優劣判断は、レヴィ=ストロースが否定するまで続いていて、レヴィ=ストロースが登場した後でさえ普遍的価値観として蔓延してるんだぞ。
ダーウィンはすごいっすわ。

ニーチェは、善悪の彼岸とか読んでたら、科学論については僕と全く同じ考え方してた。
ソコでもうポイント上がりまくり。
数学の世界のヒルベルトも、数学についての考え方同じだから、好きな数学者No.1だしね。

ニーチェは世界を「力への意志のせめぎあい」と説明した。
これも、一切の正誤善悪判断を削除して、「どこに向かうでもない」世界観。
そのどこに向かうでもないスカラーの世界で、唯一、超人のみがベクトルを持っている。
この力への意志のせめぎあいって、どっちが正しい等の座標軸設定をしていないんだよね。その点で、すっげえダーウィンと似ている。
だけど、ニーチェは反ダーウィンだったみたいね・・・(結局ニーチェは綱渡りの方向性を信じていた。)

力への意志より、進化論のほうが説明として『強い』。そう思います。

書いてたらダーウィンのがすげえじゃんって思いました。ダーウィン神
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