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ああああ

中学生の時に「本能とか理性とかなくね?」って思ってたんだけど、これが哲学的文脈と日常的文脈の齟齬なんだな。

思ったのが、公理主義を哲学に持ち込むの、いいかもしれない。って話。
例えば、「イシキなるものが存在する」という公理系、「イシキなんてものは存在しない」という公理、両方同時に研究する。
別個に存在する公理系だから、研究は勝手に進んでくれる。変な所で足踏みする必要がない。
ある公理系が行き詰まったら、他の公理系の研究を始める、なんてこともできる。
あとは、「公理」っていう考え・認識を哲学屋普遍のものにできる・・・なんていう副利益も生まれる。ここがけっこうでかいと思う。
昔、ヒルベルトが物理学に公理主義持ち込んだけど、どうやら一切の前進も産まなかったらしい。公理主義の物理学に対する貢献は任意の正数εより小さい、そんな揶揄もあったとか。うける。
だけど、多分数学と哲学は親和性あると思うんだよねー。
物理屋は哲学できないけど、哲学できる数学屋はたくさんいる。
アインシュタインとか、「神はサイコロを振らない(キリッ」とか言っててアホ丸出しじゃんね。
科学ってのが自然の斉一性原理を無条件に受け入れざるを得ない、ってとこから、これが絶対的な真理だとカンチガイして、物理学は実在論に走ってしまう・・・
実在論なんて、そんなの無思考で受け入れてたら、周りの哲学やってる人間にバカにされるもんだしね。wikipediaの素朴実在論のページで「シロウトが陥りやすい~」とか書いた人間は哲学を自己顕示ツールにしてるんだろうけど。別に悪くは言ってない。相対主義だから、全部は力への意志だし、自然選択だ。

で、乱立した公理系の、どれを選ぶか。(数学でも形式主義はこの問題にぶち当たるらしいね)
無矛盾性だとか、パラドックスの発見だとか、そういうの使ってうまく削除していけばいいんじゃないでしょうか・・・
でも、ある公理系にしがみついて、いくら反論されても離さない、みたいなのは生まれると思う。
個人の思考法に留まるのかな。

で、どうやって公理系を作るかなんだけど・・・
ここで、この方法をとるとき、必ず排中律及び無矛盾律の使用をしなければならないことに気がつく。
排中律及び無矛盾律を使わなかったら、ある命題Aについて、それを公理化するときに、

「Aである」
「Aでない」
「Aであり、Aでない」
「Aでもなく、Aでないでもない」
「AでありAでないでもなく、AでもなくAでないでもない」・・・

と、さながら空理論のようなことが起こりかねないのだ・・・。
だから、あくまで哲学の公理化は、「排中律及び無矛盾律」という公理系のもとでしか成り立たない。
そのメタ的公理系を逸脱する公理系は、また別の方法で研究せねばならない・・・。

とまあ、ここまで考えた。
排中律を使用しない(対象が無限集合のときのみだが)直観主義の手助けを得たくもなったけど、難しそうかな。

そもそも、全てがアリストテレスさんが発明した(内在的には存在していた?)論理性のもとに成り立っているから、まずはそこを疑ってかかりたいんだけどね・・・
そんなに難しいことではない、世間で言われるサイコパスは独自の論理性を持っている(のではないかな)
哲学は自殺行為だ、なんてよく言ったものだ。

唯物論を考えてて、英語の講座で『ホーリズム:holism』なんてものを聞いて、まあつまりモノ単体ではなく関係性:relationshipsが存在してこそ機能する、とかなんとか。
まあ、素朴に考えると、確かにモノ単体ではなくそれの相互作用、4つの力だとかが関わる問題かなあって気はする。あくまで形而下的にね。
だが、これを認識論的に捉えると、面白いことに気がつく。
「観測」という行為自体が、関係性である。

何が言いたいかというと、「関係性はモノより優位に立つ」ってこと。
関係性がなければモノは存在し得ない、存在してても分からない。

で、ホーリズムの話つながりなんだけど、講師の先生は「アリは単体で見ても単純な反応しかしないが、アリの巣全体を一つの生物として捉えると、実に賢い動きをする」だとかなんとか。「私たちの細胞と私たち自身の関係性もそうだ。」
ここで、前にNHKで見た番組を思い出す・・・
動物に知能はあるのか?という感じの番組だった。
その中で、ミツバチの知能について、という特集があり。説明すると長くなるので、印象的な、全てを説明できる単語を紹介しよう。

「群知能」。

ミツバチは巣全体では、さながら人間の脳のように働いている、とか。
人間の脳では、Aという主張をする神経細胞とBという主張をする神経細胞がいて、その対立・比較でよりよい方を選択する、それと同じ事がミツバチの巣では行われているらしい。
つまりは、やっぱり人間のイシキなんてのは単純な反応が多重化して複雑に見えているだけじゃないのか・・・なんてね。
断言するとまた違和感出てくるので、ぼかしときます。あと思考のメモ程度に。

まあこんくらいかな。おわり
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ちょっと補足

イシキがあるとないの線引はどこで行うのか・・・
勿論日常的文脈ではなんとなーーーーく、人間だけがイシキを持っていて、動物やコンピューターは持っていない
それで成立する。
哲学的文脈ではどうだろう。
イシキってのがただの外界への反応なら、コンピューターはイシキを持つし、全ての生物はイシキを持ち、ややもすれば万物はイシキを持つ・・・
そういうことなんだよね。
ここで機能主義を理解しました。今さっき理解した。

砂山のパラドックスと同じで、線引は感覚的ななんとなくでしか成立しえない。
(何を言いたかったのか忘れました。もう言ってあるかもだけど。)
(多分きっちりかっちり定義した時点で日常的文脈の言葉とは乖離する。これかな)
(ヒトは暑いと感じるけど、温度計内臓のパソコンも暑いって感じてブザー鳴らすよね とか思ったんだった)
(結局思い出せませんでした ごめんなさい)

あと、哲学的文脈は日常的文脈の影響を必ず受けるし、従属的なものだろうな、って感じました

ウィトダーニー

恥ずかしい話しながら、自分でウィトゲンシュタインについて言及していたくせに、ウィトゲンシュタインについて理解したのはついさっきです・・・(参考:アウグスティヌスとウィトゲンシュタイン

「意識のあるなし」を論じることについて。
そもそも、「意識」って言葉がどこから来たかってのを考えてみると、「ああ、自分が考えてるなあ・・・これに名前付けようかなあ・・・」って思った人が「じゃあ、イシキとでも名付けるか・・・」ってな感じで言葉作ったんでしょ(、多分)
だから、意識が脳の構成物質の電気信号によるウンヌンカンヌンだとしても、つまり唯物論が真だとしても、「イシキ」ってのは漠然と感じられて、というか土俵の外にいる。

つまり、イシキってのは漠然と「あーこれだなーー」みたいな共通認識で成り立っているわけ。
それを、哲学人間はイシキの持つ性質だとかに目を向けて、語の意味が「明確に定義される」わけではなく、雪だるま式に「曖昧な定義が膨らんでいって」しまった。
だから「イシキは外界とは断絶して存在して、世界は二元的である」みたいな言説が生まれ、それに反論するかたちで「イシキなんて虚妄、幻想だ」って主張がなされる。

ここで否定されたイシキってのは、あくまで”””””哲学的文脈”””””上のもの。(イシキは哲学的文脈の上ではなにやらゴチャゴチャした性質を持ってしまっており、その性質を否定されたということ)
だから、日常的文脈でのイシキは否定されていない、いやむしろされえない・・・とさえ思った。

で、そこから自分の考えは「唯機能論」に発展する。
イシキなるものが”ある”と認識する機能があり、論理性すらも機能であり、今考えているものも機能であり、すなわち「実在を論の外に追い出した分析」である。
イシキがあるかどうかは分からないが、それを感じさせる機能はある。そんな感じ。

この論は「実在」以外の全てを説明しうる。(というか実在についての議論を無視できる)
と思ってた。
少し考えてみると、どこかで「主体の存在」または「機能の存在」を前提的に含んでしまっている・・・
存在については言及したくないから、結局「何者かが存在する」という公理のもとでしか成り立たない・・・
いや、哲学なんてものはたいていこの公理に乗っかってるから、十分に意味は生み出しうるけど。
でも、逃げたくはない。

そう考えていて、そして少し振り返ってみた。
哲学的文脈の上の「イシキ」は、日常的文脈とは全く異なっていて、その哲学的文脈も機能で・・・
一切の価値判断をなくすと・・・・・・

哲学的文脈のイシキも哲学的文脈上の立派な言葉だ。

ここで電流走る
あ、これウィトゲンシュタインだ。
言語ゲームだ

なるほどね。。

で、記事書くに当たり言語ゲームについて調べてみると、

言語ゲーム(Language-game)とは、後期ウィトゲンシュタインの基本概念。
彼は後期の主著『哲学探究』において言語活動をゲームとして捉え、言葉の意味を外延(対象)や内包(共通性質)ではなく、特定のゲームにおける機能として理解すべきことを提唱した。

>特定のゲームにおける機能

なんだこいつ僕か

前も言ったけど、哲学的知識をとにかく貯めておいて、思考による実地的体験で「理解」するのが哲学ではいいと思います。


話題変更。
自分が「こいつは天才だ」って思ったのは、考えてみると、ダーウィンとニーチェくらいかな。今さっきの体験でウィトゲンシュタインも順位グイグイ上がってきてるけど。
ダーウィンは、自然選択とか、性選択とか、生物の活動を「目的論的にではなく」説明した。
これって実はすごいことですよ。
テレビとか見てると、いきもの番組で、「生き残るための知恵」とか「ナニナニするためにこのように進化した」とか平気で言ってるじゃん。今でさえまだそう言ってるのに、ダーウィンはもう全てを見抜いてた。
本当に、冷徹な、現実に向けられた眼差し。
時間の前後関係による優劣判断でさえも否定している。

だって、目的論的解釈による優劣判断は、レヴィ=ストロースが否定するまで続いていて、レヴィ=ストロースが登場した後でさえ普遍的価値観として蔓延してるんだぞ。
ダーウィンはすごいっすわ。

ニーチェは、善悪の彼岸とか読んでたら、科学論については僕と全く同じ考え方してた。
ソコでもうポイント上がりまくり。
数学の世界のヒルベルトも、数学についての考え方同じだから、好きな数学者No.1だしね。

ニーチェは世界を「力への意志のせめぎあい」と説明した。
これも、一切の正誤善悪判断を削除して、「どこに向かうでもない」世界観。
そのどこに向かうでもないスカラーの世界で、唯一、超人のみがベクトルを持っている。
この力への意志のせめぎあいって、どっちが正しい等の座標軸設定をしていないんだよね。その点で、すっげえダーウィンと似ている。
だけど、ニーチェは反ダーウィンだったみたいね・・・(結局ニーチェは綱渡りの方向性を信じていた。)

力への意志より、進化論のほうが説明として『強い』。そう思います。

書いてたらダーウィンのがすげえじゃんって思いました。ダーウィン神
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縦令真理を教えてくれる神がいようとも、それの語ったところは僕にとっては真理ではないのです。

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