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うなぎ論法でピュロン主義

最近、哲学ワードを並べるだけのツイートをたまにします。
あとでブログ書くときのために、メモ程度で考えたことの概略を忘れないように。

前の記事で、

懐疑主義者ってさ。
「真理はない」って言っちゃうと、じゃあそれが真理じゃね?って突っ込まれるから、「真理はあるかどうか分からない」って言うじゃん。
でも「じゃあその分からないってのが真理じゃん?」って突っ込まれるから、「真理はあるかどうか分からないかもしれない」って言う。
でも・・・・・・

と無限にやり取りを続けなければ自分の立場を正確に示すことはできない。


って言ったじゃん。
昨日知ったんだけど、

『うなぎ論法』 wikipediaのサンジャヤ・ベーラッティプッタのページより引用
霊魂の存在・来世の存在・善悪の行為の報いの存在など形而上学的な重要問題に対して曖昧な回答をし、判断を中止する態度をとったといわれる。たとえば、「来世があるのか」という問いに対し、「あるとは考えない、来世があるとも、それとは異なるとも、そうではないとも、また、そうではないのではないとも考えない」と、とらえがたい議論をしたという。このような論法を「うなぎ論法」ということがある。

『ピュロン主義』 wikipediaの懐疑主義のページより引用
同様に、ピュロン主義者は、「万物は虚偽である」とか「何事も真理ではない」とは言わずに、「私にとっては今のところ何事も把握不可能であるように思われる」とか「私は今のところこのことを肯定もしないし否定もしない」という慎重な言い回しを用いる。


な、なんやこれわ~~~~~~~~~~~wwwwwwwwwwwwww
両方同じ事言っとるwwwwwwうけるwwwwwwwwwwwwwwwwww俺も同じ事言ってるwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwドチャクソうけるwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

そんで思ったんですけど、この2つって両方すごい昔じゃないですか。紀元前か紀元後付近。
自分の行き着いた結論も、とうの昔に発見されていて、近代では論じられた形跡すらない。
つまーーーーーーーーーーーーり。
人類は一度、真理の探求を諦めたッッッ!!!!!
だがしかしッ!人類の知識愛は止まらないッッ!!
そこでッ!人類は真理ではなく、真理である可能性の高いものを探求し始めたのだッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!

諦めの姿勢である。
だから、近代では自我の存在を仮定してみたり、直感が真であると仮定してみたりして、「真理っぽいもの」を探してる。

現代の哲学に、僕の居場所はなかった。
だから脱構築とかが「破壊的な活動である」って言われて衰退していったんだよなあ。
そもそもみんなこの「諦め」を自覚してんの?
「真理には辿りつけないっぽい」ってことを知ったら、それまでの探求活動が無意味だったってなるから、それから無意識のうちに視線を逸らしてるのかな?

自分の哲学が「破壊」だから、過去の自分を否定することなんて常で、もう慣れっこというか、いやまあそのせいで精神に負担がとかはあるだろうけど、自分はそれを受け入れてる。

いやはや、困ったものだ。



追記

ピュロン主義は、「心の平静」(アタラクシア)に行き着いた。
サンジャヤから「うなぎ論法」を受け継ぎ、「無記」に発展させたブッダも、同様に「苦からの開放」を求めてのことだった。

生まれてきた時代間違えたかな
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不確定なものを排除するのはその不確定なものを否定するというわけではない

不確定なものを排除しただけなのについ否定的に走っちゃうことあるよね。
無神論とか、ニヒリズムとか、不可知論とか、独我論とか。挙げていくとキリがない。
ここは意識的に直す必要があるね、すぐドグマに陥る。

何かについて疑問に思うっていうのは、自分がこれまでに形成してきた常識に反するものが現れて、それを自分の常識のなかに押し込もうとして生じる軋轢。
自分というものを、まるで湯気のようなものに変えれば、何も疑問に思わなくなる。すべてをありのまま受け入れる。

コギトエルゴスムって、批判はされつくしてるけど、否定はされきってないよね。
それに対して「否定の証明なんてしたらその否定したのは誰なんだよ」っていうシャンカラ的な「主体を否定するお前は何者ぞ!」になっちゃうなーと思っちゃったんだけど、本当にそうなのだろうか。
まあ分からない。「論理がないことを論じれば論理があるという証明になる」っていう古代の懐疑主義と独断主義論争のディレンマ論法に対する回避策「論じなければいい」で同じくどうとでもなるからいいけど。

前に
>分からないってのは個人的な感想でしかない。
って言った。これを検討。
分からないとはなんだ?他人は明確な根拠ありで真理にたどり着いているかもしれない。
もしかして真理を知らないのは自分だけなのでは?

そもそも「分かる」ってなんだ。
真理という宇宙的なものを個人的な「分かる」に押し込めていいのか?
他人は「世界が自分の目に見える形で実存し、自分も同様に実存している」って完全に信じ切ってると思うけど、その人にとってはそれが真理だよね。
クオリア同様、真理も私秘的なもの?
つまり、懐疑主義者だけが真理に到達してない?
真理の再定義が必要だね。
真理は十人十色かも。

>懐疑主義者は断言できない。かもしれない。かもしれない。かもしれない。・・・・・・・・・・

>死ね
>懐疑主義者は喋れねーじゃねえかクソ
じゃあつまり、「かもしれない。」の部分にlimをつけて∞に飛ばしたらそれは正確な言及になるのか?
で、結論自体に方法的懐疑かけると、結局それも分からない。
結論を懐疑するのはやばいね。全部否定できるんじゃね。
というか論理性が介在してるからそれ疑えばいい。

懐疑の3段階。
1.自分の認識を疑う。
2.論理性を疑う。
3.直感を疑う。

結局何も残らない。

トートロジーって真理なの?
いや、普通に考えれば真理だろうけど、実は真理じゃないんじゃね?
懐疑で全てを否定しま~~~~~すwwwwwwwwww

思考により真理を生み出すけど、その思考が湯気みたいなもんだからどうしようもない。

504 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/10/03(月) 01:35:46.60 ID:Jzr6ENdl0
>>497
過去はな
でも今こうしてディスプレイ見ながらカタカタキーボード打ってる「今」は確かに存在している
0.000000......1でも過ぎたら過去だ
俺は「今」確かに存在している

511 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/10/03(月) 01:38:43.96 ID:yznqzsAm0>>504
その認識はすでに過去のものだよ
「今」確かに存在しているって認識は後追いでしかない
人間は絶対に現在を捉えることが出来ない

っていうのがレヴィナスだっけ

時間論については>>504の立場だったけど、>>511見て思い直す。認識の根源を問い直すってのはいいことだな。
確かに「今考えてるぞ!!」って言ってる間にも時間は過ぎてくね。はあ。

ああ 「人生は無価値だから死のう」ってのは「人生は自殺する価値がある」って言ってることだから自己矛盾に陥ってるのか これまんまデリダの脱構築じゃん
価値ってのはマイナス方向の価値ね この文脈だと

ツイートからコピペ。哲学者を自分なりのやり方で理解するってのは重要だと思うよ。というか予め哲学者についての知識を持っといて(理解しなくてもいい)、あとで思索の中でその哲学者と同じ考え方をしてること多い。

「無記」で検索して、一番上のページを見る。
これって、懐疑主義や現象学の「エポケー」(判断停止・判断保留)じゃん。インド哲学にも現象学に似た考え方をしてたらしいシャンカラって人がいて、その人は「仮面の仏教徒」って呼ばれたように仏教の影響を受けてたらしい。
あと無記はウィトゲンシュタインの「語りえぬものには、沈黙しなければならない。」とも一致する。
シッダールタやべえwwwwwwwwww

最近考えたことをまとめました。
何も前進してないけど、「これでよい」(Es ist gut.)
カント嫌いだけどね。
懐疑主義もポストモダンも破壊的で積極的な価値を何も生み出してない。
ここらへん、自分と同じ。
自分の哲学活動を一言で表せば「破壊」です。

自己批判

>前々から思ってたんだけど、人間はこの世界規模のセカイにまだ適応してない。うん。
>鎖国しろって割と真面目に思ってます。

お前人間というものに対して脱構築できてねえじゃねえか死ね


>哲学は、前提を除去することによって徐々に前進してゆく。

前進ってなんだよ曖昧な言葉使うなや
これただの感想じゃねえかクソ


あと、自我が存在するかどうかという問いは、主体と問われる対象が一体化してるなあとか一瞬思ったんだけど、そんな証拠はないし、禅とかやると自我を外から見つめられるらしいし、その見つめているものが自我かどうかは知らないけど、自分の考えがクソ。

燃え尽き症候群のケがあるから、物理数学とか昔興味あったけど今全くないし(才能の限界を感じました)、得意分野の哲学に至っては懐疑主義者になっちゃたから停滞してるしでどうしようもない。
死ぬか

前提の除去

哲学は、前提を除去することによって徐々に前進してゆく。
懐疑主義はその最たる方法である。

私たちが無思考で受け入れている前提・公理を検討しなおし、削除してゆく。
不確定なものを取り除いてゆき、真である可能性が高いものへと近づいてゆく。

だが。
懐疑主義の結論なんて、ピュロンやセクストスの時代に既に出ており、前進してない。
デカルトも前進には至らなかった。
今の哲学は真理がないということを示そうとしている感じらしい。もちろん自己言及のパラドックスに陥る。

それでだ。
VIPも捨てたもんじゃない、こんなレスを見つけた。

63: 忍法帖【Lv=3,xxxP】(1+0:15) 2013/05/17 16:26:39 ID:YMHIh1/X0
なんで神が「存在する」か「存在しない」の二択で語ってるんだよ
それじゃ排中律の成り立つ論理体系の下でしか成り立たないじゃねーか
この世界はその体系だけじゃねーだろ
排中律が成り立たない論理体系や成り立つか分からない論理体系、
その他の体系でも示さなきゃ真に一般的普遍的とは言えないだろ

っつーかそもそも論理体系が無限にあったら神の存在性は証明不能
あぁ証明が定義されていない論理体系はどうしよう
そもそも定義の存在しない体系は・・・

結論:かみさまたすけて


つまりは、
「普遍の真理とは存在しうるあらゆる公理系のもとで真であるもののことであり、前提の除去はその一つの手段でしかない」
ということ。
全ての公理系の検討が有限の立場より不可能なので(ここでは便宜上不可能という言葉を使うが云々)、公理を取っ払えばいいじゃんってのが前提の除去。

で、その真理が何かが「分からない」と。
ではこれを答えにすればいいのでは?と思うかもしれないが、それは「自分が分からないってことを分かってる」ことであるし、証明もされていないし、他人は分かってるかもしれない。
分からないってのは個人的な感想でしかない。

完全にネガティブ入ってる。
おわり。

クオリア・スイッチ/脱構築

前の続き。

前回は
>僕はこれに全面同意はできないけど(理由は色々ある。今度述べるかな)、
とか言ってどや顔してましたけど、今では完全同意です。
これ書いたときは、「クオリアの議論は、クオリアが『ある』という前提で議論している」から、そこに「クオリアなんてないからwwwwwww」みたいに言っても「いや、そういう前提で考えてるだけだから。」って返される。
って考えてたんですよ。

でもでもでもでもwwwwwwwwwwwwwwwそんなの関係ねえwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
じゃなくて。
脱構築ですよ脱構築。デコンストラクション。
静止した構造と見做されていたものを、動的な、絶えず変化する構造として捉え直す。
これって、クオリアの議論に時間の概念を持ち込むことに似てませんかね。
そもそもクオリアがないなら議論の必要がない、ただのお遊びだし、物理主義・唯物論はクオリアの否定を目指してるんだったね。
クオリアがあるかどうかは分からないけど、こういう思考実験によって「あってもなくても関係ない」ことが示せるわけだ。

そうそう。脱構築の話だけど、本質的に理解したのは、生物学のことを考えていたとき。
テレビで、北極の氷が溶けてホッキョクグマが~みたいなことやってた時に、生態系保護に対しては大きく3つの立場があると思った。

①現在の生態系を何が何でも保持する。
②人間も自然の一部とみなし、環境破壊も自然活動とみなす。
③人間の活動が一切自然界に影響を及ぼさないようにする、徹底的不干渉。

世間一般で言う「生態系保護」って①の立場だよね。
で、これは地球の全体的・周期的な変化が起こった時に破綻する。破綻しないためには地球をすべて人口の何かで覆うかでもしないと。

②については、なんで世界がこれに反対するのかって言うと、それだと自分たちが生き残れるか分からないから。種の保存への本能的力。
生態系は、何かが欠けたら何が起こるか予想がつかないところがあるから、ただ人間の存続のみを考えても失敗する可能性が高い。
環境を保護しようっていうのは、自然の人間に対する優位を問いてるわけだ。でも②だって、人間を特別視しない、我々は自然の一部だとする自然>人間の立場をとってる。ここは面白い対立。

で、③ですよ③。
正直無理ですよね。呼吸をすることだって自然界への干渉。宇宙に出て行くくらいしか選択肢ない。本末転倒。
これは理想中の理想だけど、無政府主義と同じように実現不可能。ここでは便宜上不可能という言葉を使いますが、僕は懐疑主義者なので、可能性は無きにしもあらずではある。
だけど、ホッキョクグマが氷が解けることに適応せずに死んでいくのはある意味当然のことであるし、そこに干渉していくのもどうかなという気もする。
予備校の物理の先生も今日同じ話してた。

ホッキョクグマが、氷が解けたせいで必死に泳いでる姿を見ると、「なんかかわいそう」って気持ちになる。それが積極的干渉・保護になっていくんだろうね。
動物を見てかわいそうと思う本能(環境依存かも。本能か環境かの議論は幼児を実験台にしないといけないからクローン技術が発達しないとされないだろうね)は、人類が昔から狼に肉を分け与えて、今のイヌとヒトの関係を作ってきたみたいなところから来ているんだろう。でもそれが地球規模になってしまったせいで、線引が難しくなってる。
前々から思ってたんだけど、人間はこの世界規模のセカイにまだ適応してない。うん。
鎖国しろって割と真面目に思ってます。

そんでまあ、話戻すけど、
①は自然界を静止した構造として見ている。
②、③は自然界を動的な構造として見ている。
これが脱構築だ!!!!!

今日は珍しく形而下学の、実学的な話でした。おわり。

クオリア、コギト

クオリアってのは意識的体験、って訳されるけど単に「意識」って読んでいいと思う。
で、このクオリアってのがちょっと難儀。
哲学的ゾンビってのがあって、「クオリアを持たない人間」のこと。意識がない。だが、普通に生活していて、外からはクオリアがあるかどうか判別はできない。
変な話、これを読んでる人からすれば書いてる自分は哲学的ゾンビであるかもしれない。僕から見れば読んでる人が哲学的ゾンビであることもありうる。
とまあ、つまりはクオリアの問題ってのは自分を対象に研究はできるがその拡張、一般化、つまり他人に当てはめることはできない。
クオリアを「魂」って言うと分かりやすいのかな。だからいくら物理的な研究をしても解決できない。脳が全て既知の物質でできている証明はされていない。我々は魂を否定することはできない。

で、本題に入るけど、2chの哲学板で、こんなのを見つけた。


『クオリア・スイッチ』
外部のリモコンでチャーマーズのクオリアとやらをオン・オフできるスイッチを作る
チャーマーズが哲学的ゾンビを想像可能と言うのならば
このようなクオリアスイッチも想像可能だわな


さてさて

リモコンでチャーマーズのクオリアスイッチをこっそりオン・オフしたら
チャーマーズはそのオン・オフの瞬間を報告したり、現在がどちらであるのかを識別できるのか?

(1)識別不可能なのならばクオリアとやらはオッカムの剃刀で削除するべき不要な概念である
(2)識別可能ならば哲学的ゾンビもクオリアの無さとやらを識別できることになり、行動が人間とは異なってしまい、「人間と行動の区別がつかない哲学的ゾンビ」という仮定と矛盾する
自覚してしまったら最後、あらゆる手段を使って自覚したかどうかを調べられてしまう

チャーマーズは(1)クオリアの放棄(2)哲学的ゾンビの放棄
のどちらかしか選択することは出来ない

故にクオリアなる仮説は偽である



チャーマーズってのは哲学的ゾンビの概念を生み出した人ね。

僕はこれに全面同意はできないけど(理由は色々ある。今度述べるかな)、これで面白いアイデアを頂いた。
基本的に心の哲学とか形而上学の問題って、『存在』に関することだと『時間』の概念が忘れられるんだよね。でも、このクオリアスイッチは時間を忘れてない。
世界五分前仮説ってあるじゃん。あの着想を元にすると、また意識が(我が)あるとすると、その自我の認識、コギトが確固たるものであるのは”イマ”の一瞬だけ。自我現在誕生仮説とでもいうかな。
まあ、つまりだ。こういう問題に時間を持ち込むと、ややこしくなる。

根源的な話をしちゃうと、クオリアの概念があやふやというか、だからクオリアってのあんまり信じてない。あるかどうかわからん。それについてはコギトエルゴスムの議論かな。
でも心の哲学の証明法、思考実験はすごい好き。よくこんなん思いつくなって感じ。

ここまで書いてなんだけど、クオリアの議論に時間の概念を持ち込めばいいってもんでもなくて、クオリアの議論はあえて時間を無視してる。ややこしくなるからと、あとは時間については前提条件として同意されてる。形而上学と形而下学の関係みたいなもん。

この流れで「前提の削除」の話でもするか。今度。

異邦人・幸福な死

追記:『幸福な死』はカミュの未発表だった作品、異邦人のもとになったと言われている。主人公の名前がメルソーとムルソーであることから一目瞭然である。
世間一般の評価では、当然のように異邦人のほうが評価も高い。カミュ自身もそうであると思っていただろう。カミュは幸福な死を公開しなかったのだから。
以上を踏まえての記事である。そのため追記が前にきた。



カミュの「異邦人」と「幸福な死」、読み終わった。
幸福な死は半分くらい読んでしばらく放置、異邦人読む、幸福な死を初めから読む。この順番で読んだ。

異邦人は結構読みやすいのとページ数少ないので、けっこうスピード出しながら読んじゃった。そのせいか分からないけど、カタルシス的なものは感じなかった。もう一回読んだほうがいいかも。
あと、主人公のムルソーが後述するメルソー君より人間離れしているから、そこに共感とかが生まれなかったのかも。
この終わり方がいいんだろうけど、欲を言えばムルソーが死ぬところまで描写してもらいたかった。幸福な死では最後ちゃんと死んでるからね。いろんな草稿があってその全てでは死ぬところまでは描写してなかったらしいけど。

幸福な死は、これがまた読みづらい。表現が抽象的すぎたり、論理が飛躍してたり(ここはあえてかもしれない)でかなりこんがらがる。ただめちゃくちゃ共感できる日常的表現もあった。
ただこれは日本語訳の問題というか、学者さんが訳してるから直訳調で、多分フランス語の特徴が日本語に訳されても残ってるのかも。多分+かもって表現なんかあれだね。
文字数はこっちの方が多いと思うし、読みづらさもあるから読む時間はこっちのほうが数倍かかった。
でもそのおかげで、カタルシスがすごい。やばい。
頭が突き抜けるよう、ってこういうことなんだろうなあ、って感じ。正直何が面白いかは説明できない。文学全てにおいて言えることだろうけど。構造主義なんかはそこら辺に手を付けてるのかな?よくわからん。
あと上で言ったように幸福な死の主人公・メルソー君は人間味があるほうだから、共感湧きやすい。共感ってのは文学の面白さの一要素だと思う。

個人的には、『幸福な死』のほうが『異邦人』より面白かったです。
カミュの著作の中で最高傑作は『異邦人』っていう人いるけど、読み方の違いかな。そこらへんかなり気になるから、もう一回異邦人読むか。積んである本まだあるんだけどね。
シーシュポスの神話読みたくなってきた。どうでもいい話だけど、シジフォスって言い方のほうが好き。

カミュの、及びキェルケゴールの、不条理に対して人間はどうするか、ってあれ。

1.自殺
2.宗教を盲信
3.不条理を受け入れて生きる

カミュは2は思考の放棄であるとし、哲学的自殺だとした。そして3の生き方をよしとした。
しかーしキェルケゴールは、3は自殺を引き起こすとして退け、2を選択した。
僕が宗教好きなのは、社会的規範として宗教を見てるのもあるけど、心の何処かで宗教に救いを求めてるのかもしれない。でも僕は宗教を盲信できないだろうから(単純に規律戒律がめんどくさい)、叶わぬ恋、みたいなものを宗教に抱いてるのかも。書いてる本人はそんなつもりは一切ない。

結論:自殺サイコーーーーーーーwwwwwwwwwウェーイwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

今積んである本:若きウェルテルの悩み、小説秒速5センチメートル、変身
ウェルテルは今あんま読む気おきない。秒速消化して変身読むかな。

色々哲学について論じたりしてますけど、僕は哲学書読めません。
哲学書ってそこまで論理性がないというか、こじつけだったりすることもあるのと、あとはただ読書自体が苦手。
本を読むのは苦痛でもあるんだけど、無理やり読んでる。マンガに慣れてるから、頭がめんどくさがり。
なので、僕の哲学の知識は全部wikipediaです。wikipedia最高だぜええええ!!!!!!
おしり。

補足

記事投稿直後に補足。
というか「僕は死んだ。」で記事終わらせたかっただけで~~~wwwwwwっwすwwwwwww

真理を求めるためには立ち止まるな!!!!!!
というか、進み続けるってことはそれまでの自分を否定することだから、精神病むわ。そりゃ。

前のに少し補足説明すると、純粋な直感を疑ったせいで、「我あり」も確固たるものではなくなっちゃいました、って話。

懐疑主義者ってさ。
「真理はない」って言っちゃうと、じゃあそれが真理じゃね?って突っ込まれるから、「真理はあるかどうか分からない」って言うじゃん。
でも「じゃあその分からないってのが真理じゃん?」って突っ込まれるから、「真理はあるかどうか分からないかもしれない」って言う。
でも・・・・・・

と無限にやり取りを続けなければ自分の立場を正確に示すことはできない。

一時期頭のなかで無限にやろうとしてたけど、頭がおかしくなりそうだったからやめた。つーかおかしくなった。

懐疑主義者は断言できない。かもしれない。かもしれない。かもしれない。・・・・・・・・・・

死ね
懐疑主義者は喋れねーじゃねえかクソ

精神が壊れるまで積極的に懐疑していけ

googleで「懐疑主義のパラドクス」と検索すると一番上に出てくるサイトを読む。
やばい。懐疑主義者そんな前からいるの。やばい。

懐疑主義者のやばさは伝わっただろうか。
懐疑主義者は全てを疑い尽くす。

それはいい。

デカルトの方法的懐疑だ。
そこまではいい。

だがしかし。
懐疑主義者が「論理性」までも疑い始めたらどうなるだろうか。
論理性の上に構築される哲学において、論理性までも疑う。
やばい。懐疑主義者やばい。

論理性を疑った結果どうなるの?
こたえ:「・・・(沈黙)」

そう、待っているのは沈黙だ。
論理性を疑うことにより、語ることすらできなくなってしまう。

さっき名前出したけど、デカルトは「我思う故に我あり」って主張したじゃん。
「故に」ってのが思いっきり論理性出してるよね。論理性も疑えや。

そこで、論理性も疑った上でコギトエルゴスムはどうなるか。

論理性を解体し、純粋な直感として「我あり」。
我思うをつけたいなら、「我思い、かつ我あり」。

論理性までも疑ってこの先どうすれば・・・と思っていた僕に電流走り、この答えに達した。

その後に気付く。
スピノザ「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」

ファッ!?!?!?!?!?

これだああああああああああああああああ

ぼくは スピノザ と おなじきょうちに たっした。

この瞬間はめっちゃ感動した。涙出るかと思った。
完全に行き詰っていた僕の哲学が、まるで栓が取れたかのように、一気に流れだした。
これに達した時のぼくのツイート:

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

しかし俺に電流走る

懐疑主義で「論理性」までも排除して何が残るんだって思ったけど、そこには純粋体験みたいな、透明な精神みたいなものが残ってる 我思う故に我ありの我思う故にの部分いらなくて、ただ純粋に「我あり」でいいんだ 論理性を排除した真理


スピノザが同じプロセスでこれに達したかは知らない。
今の哲学、ポストモダンは「我なし」というような、諸法無我の立場に近いという。

だがッ!!!!我は、『有る』ッッッ!!!!!!!!!!!

やったぜ。

デカルトのコギトは、クオリアの発見でもあるから好きなんだよね。
個人の意識の発見。

個人の意識に関することは、西洋よりインドの方が数万歩先行ってる。デカルトとシャンカラめっちゃ似てる。
だからインド哲学学びたいんだよね。

でもさ、インド哲学って論理的思考の裏付けあるの?
調べても論理的な部分が見つからないし、インド人は直感的なイメージある。数学においてとか。
西洋のそんな先行ってるの怖すぎでしょ。直感的なとこ多いんじゃねえの。よくわからんけど。よくわからんから大学で印哲学びたいです。



そんなある日。
哲学の行き詰まりが完全に解消された僕は、興奮してブログ再開する。
というか

論理性を解体し、純粋な直感として「我あり」。

これを書きたくてブログ書いたんだよね。
ふーっ、疲れた。これでブログ書くことなくなるんじゃね?



そして理性の悪魔が僕に囁く。

「純粋な直感は疑わなくていいの?」





僕は死んだ。

アウグスティヌスとウィトゲンシュタイン

quid est ergo tempus? si nemo ex me quaerat, scio; si quaerenti explicare velim, nescio.(アウグスティヌス・告白より引用)
私は時間について問われないとき、それが何かを知っている。だが問われるとき、私はそれが何かを知らない。

Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.(ウィトゲンシュタイン・論理哲学論考より引用)
語りえぬものには、沈黙しなければならない。



アウグスティヌスは西暦400年頃の人物、ウィトゲンシュタインは1900年代の人物なので、2人の間には大きな時代的隔たりがあるように感じる。
しかし、上に引用した文を読んでみると、とても近いことを言っているように思える。
単純に読解すれば、アウグスティヌスの主張は「聞かれたら答えられない(≒沈黙しなければならない)」となる。これだけでも2つの類似性は読み取れるだろう。

しかし、本質はまた別のところにある。

ウィトゲンシュタインの哲学は前期・後期に分けられる。
論理哲学論考は前期の出版物である。
では後期の主張とは何か。
彼は、「言語ゲーム」なるものを発見した。
端的に述べれば、「言語というものは日常的コンテクストでのみ使用でき、哲学的コンテクストでは機能しない」という主張である。
例えば『時間』という言葉について。
時間とは何か、という問いは、哲学史のなかで繰り返し議論がなされてきた題である。
遡れば古代ギリシア、そのころから論じられてきたのになぜ解決されていないのか?
言語ゲームという概念は、それに一つの答えを出すことができる。
つまり、『時間』という言葉は、日常的コンテクストの上でのみ機能する。時間とは何か、という本来の用法からかけ離れた哲学的問いの上では機能しない。

このウィトゲンシュタインの主張を理解した上で、もう一度アウグスティヌスの言葉を読んでもらいたい。

私は時間について問われないとき、それが何かを知っている。だが問われるとき、私はそれが何かを知らない。

「時間について問われないとき」=日常的コンテクスト、
「問われるとき」=哲学的コンテクスト

このように理解できないだろうか。
一度哲学的コンテクストの中に組み込まれた言葉は、本来の用法から隔絶されて、まったく別のものになってしまう。
「時間とは何か」と問われた時点で、時間という言葉はそのコンテクストにおいて既知のものから未知のものへと変容してしまう。


プロセスは違えど、同じ結論に達するということは哲学においてしばしばある。西洋と東洋を比較すれば一目瞭然だ。まあ、プロセス自体同じ、なんてこともある。
ブログタイトルの「プルシャとプラクリティ」は、霊肉二元論の東洋的な概念だ。
インド哲学は西洋哲学のだいぶ先を走っている感じがあるので、インド哲学に対する興味が日々増してる。だが独学はきつそうだし、大学は周りに止められる。どうしたものか。
プロフィール

わふー

Author:わふー
縦令真理を教えてくれる神がいようとも、それの語ったところは僕にとっては真理ではないのです。

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