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ああああ

中学生の時に「本能とか理性とかなくね?」って思ってたんだけど、これが哲学的文脈と日常的文脈の齟齬なんだな。

思ったのが、公理主義を哲学に持ち込むの、いいかもしれない。って話。
例えば、「イシキなるものが存在する」という公理系、「イシキなんてものは存在しない」という公理、両方同時に研究する。
別個に存在する公理系だから、研究は勝手に進んでくれる。変な所で足踏みする必要がない。
ある公理系が行き詰まったら、他の公理系の研究を始める、なんてこともできる。
あとは、「公理」っていう考え・認識を哲学屋普遍のものにできる・・・なんていう副利益も生まれる。ここがけっこうでかいと思う。
昔、ヒルベルトが物理学に公理主義持ち込んだけど、どうやら一切の前進も産まなかったらしい。公理主義の物理学に対する貢献は任意の正数εより小さい、そんな揶揄もあったとか。うける。
だけど、多分数学と哲学は親和性あると思うんだよねー。
物理屋は哲学できないけど、哲学できる数学屋はたくさんいる。
アインシュタインとか、「神はサイコロを振らない(キリッ」とか言っててアホ丸出しじゃんね。
科学ってのが自然の斉一性原理を無条件に受け入れざるを得ない、ってとこから、これが絶対的な真理だとカンチガイして、物理学は実在論に走ってしまう・・・
実在論なんて、そんなの無思考で受け入れてたら、周りの哲学やってる人間にバカにされるもんだしね。wikipediaの素朴実在論のページで「シロウトが陥りやすい~」とか書いた人間は哲学を自己顕示ツールにしてるんだろうけど。別に悪くは言ってない。相対主義だから、全部は力への意志だし、自然選択だ。

で、乱立した公理系の、どれを選ぶか。(数学でも形式主義はこの問題にぶち当たるらしいね)
無矛盾性だとか、パラドックスの発見だとか、そういうの使ってうまく削除していけばいいんじゃないでしょうか・・・
でも、ある公理系にしがみついて、いくら反論されても離さない、みたいなのは生まれると思う。
個人の思考法に留まるのかな。

で、どうやって公理系を作るかなんだけど・・・
ここで、この方法をとるとき、必ず排中律及び無矛盾律の使用をしなければならないことに気がつく。
排中律及び無矛盾律を使わなかったら、ある命題Aについて、それを公理化するときに、

「Aである」
「Aでない」
「Aであり、Aでない」
「Aでもなく、Aでないでもない」
「AでありAでないでもなく、AでもなくAでないでもない」・・・

と、さながら空理論のようなことが起こりかねないのだ・・・。
だから、あくまで哲学の公理化は、「排中律及び無矛盾律」という公理系のもとでしか成り立たない。
そのメタ的公理系を逸脱する公理系は、また別の方法で研究せねばならない・・・。

とまあ、ここまで考えた。
排中律を使用しない(対象が無限集合のときのみだが)直観主義の手助けを得たくもなったけど、難しそうかな。

そもそも、全てがアリストテレスさんが発明した(内在的には存在していた?)論理性のもとに成り立っているから、まずはそこを疑ってかかりたいんだけどね・・・
そんなに難しいことではない、世間で言われるサイコパスは独自の論理性を持っている(のではないかな)
哲学は自殺行為だ、なんてよく言ったものだ。

唯物論を考えてて、英語の講座で『ホーリズム:holism』なんてものを聞いて、まあつまりモノ単体ではなく関係性:relationshipsが存在してこそ機能する、とかなんとか。
まあ、素朴に考えると、確かにモノ単体ではなくそれの相互作用、4つの力だとかが関わる問題かなあって気はする。あくまで形而下的にね。
だが、これを認識論的に捉えると、面白いことに気がつく。
「観測」という行為自体が、関係性である。

何が言いたいかというと、「関係性はモノより優位に立つ」ってこと。
関係性がなければモノは存在し得ない、存在してても分からない。

で、ホーリズムの話つながりなんだけど、講師の先生は「アリは単体で見ても単純な反応しかしないが、アリの巣全体を一つの生物として捉えると、実に賢い動きをする」だとかなんとか。「私たちの細胞と私たち自身の関係性もそうだ。」
ここで、前にNHKで見た番組を思い出す・・・
動物に知能はあるのか?という感じの番組だった。
その中で、ミツバチの知能について、という特集があり。説明すると長くなるので、印象的な、全てを説明できる単語を紹介しよう。

「群知能」。

ミツバチは巣全体では、さながら人間の脳のように働いている、とか。
人間の脳では、Aという主張をする神経細胞とBという主張をする神経細胞がいて、その対立・比較でよりよい方を選択する、それと同じ事がミツバチの巣では行われているらしい。
つまりは、やっぱり人間のイシキなんてのは単純な反応が多重化して複雑に見えているだけじゃないのか・・・なんてね。
断言するとまた違和感出てくるので、ぼかしときます。あと思考のメモ程度に。

まあこんくらいかな。おわり
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ちょっと補足

イシキがあるとないの線引はどこで行うのか・・・
勿論日常的文脈ではなんとなーーーーく、人間だけがイシキを持っていて、動物やコンピューターは持っていない
それで成立する。
哲学的文脈ではどうだろう。
イシキってのがただの外界への反応なら、コンピューターはイシキを持つし、全ての生物はイシキを持ち、ややもすれば万物はイシキを持つ・・・
そういうことなんだよね。
ここで機能主義を理解しました。今さっき理解した。

砂山のパラドックスと同じで、線引は感覚的ななんとなくでしか成立しえない。
(何を言いたかったのか忘れました。もう言ってあるかもだけど。)
(多分きっちりかっちり定義した時点で日常的文脈の言葉とは乖離する。これかな)
(ヒトは暑いと感じるけど、温度計内臓のパソコンも暑いって感じてブザー鳴らすよね とか思ったんだった)
(結局思い出せませんでした ごめんなさい)

あと、哲学的文脈は日常的文脈の影響を必ず受けるし、従属的なものだろうな、って感じました

ウィトダーニー

恥ずかしい話しながら、自分でウィトゲンシュタインについて言及していたくせに、ウィトゲンシュタインについて理解したのはついさっきです・・・(参考:アウグスティヌスとウィトゲンシュタイン

「意識のあるなし」を論じることについて。
そもそも、「意識」って言葉がどこから来たかってのを考えてみると、「ああ、自分が考えてるなあ・・・これに名前付けようかなあ・・・」って思った人が「じゃあ、イシキとでも名付けるか・・・」ってな感じで言葉作ったんでしょ(、多分)
だから、意識が脳の構成物質の電気信号によるウンヌンカンヌンだとしても、つまり唯物論が真だとしても、「イシキ」ってのは漠然と感じられて、というか土俵の外にいる。

つまり、イシキってのは漠然と「あーこれだなーー」みたいな共通認識で成り立っているわけ。
それを、哲学人間はイシキの持つ性質だとかに目を向けて、語の意味が「明確に定義される」わけではなく、雪だるま式に「曖昧な定義が膨らんでいって」しまった。
だから「イシキは外界とは断絶して存在して、世界は二元的である」みたいな言説が生まれ、それに反論するかたちで「イシキなんて虚妄、幻想だ」って主張がなされる。

ここで否定されたイシキってのは、あくまで”””””哲学的文脈”””””上のもの。(イシキは哲学的文脈の上ではなにやらゴチャゴチャした性質を持ってしまっており、その性質を否定されたということ)
だから、日常的文脈でのイシキは否定されていない、いやむしろされえない・・・とさえ思った。

で、そこから自分の考えは「唯機能論」に発展する。
イシキなるものが”ある”と認識する機能があり、論理性すらも機能であり、今考えているものも機能であり、すなわち「実在を論の外に追い出した分析」である。
イシキがあるかどうかは分からないが、それを感じさせる機能はある。そんな感じ。

この論は「実在」以外の全てを説明しうる。(というか実在についての議論を無視できる)
と思ってた。
少し考えてみると、どこかで「主体の存在」または「機能の存在」を前提的に含んでしまっている・・・
存在については言及したくないから、結局「何者かが存在する」という公理のもとでしか成り立たない・・・
いや、哲学なんてものはたいていこの公理に乗っかってるから、十分に意味は生み出しうるけど。
でも、逃げたくはない。

そう考えていて、そして少し振り返ってみた。
哲学的文脈の上の「イシキ」は、日常的文脈とは全く異なっていて、その哲学的文脈も機能で・・・
一切の価値判断をなくすと・・・・・・

哲学的文脈のイシキも哲学的文脈上の立派な言葉だ。

ここで電流走る
あ、これウィトゲンシュタインだ。
言語ゲームだ

なるほどね。。

で、記事書くに当たり言語ゲームについて調べてみると、

言語ゲーム(Language-game)とは、後期ウィトゲンシュタインの基本概念。
彼は後期の主著『哲学探究』において言語活動をゲームとして捉え、言葉の意味を外延(対象)や内包(共通性質)ではなく、特定のゲームにおける機能として理解すべきことを提唱した。

>特定のゲームにおける機能

なんだこいつ僕か

前も言ったけど、哲学的知識をとにかく貯めておいて、思考による実地的体験で「理解」するのが哲学ではいいと思います。


話題変更。
自分が「こいつは天才だ」って思ったのは、考えてみると、ダーウィンとニーチェくらいかな。今さっきの体験でウィトゲンシュタインも順位グイグイ上がってきてるけど。
ダーウィンは、自然選択とか、性選択とか、生物の活動を「目的論的にではなく」説明した。
これって実はすごいことですよ。
テレビとか見てると、いきもの番組で、「生き残るための知恵」とか「ナニナニするためにこのように進化した」とか平気で言ってるじゃん。今でさえまだそう言ってるのに、ダーウィンはもう全てを見抜いてた。
本当に、冷徹な、現実に向けられた眼差し。
時間の前後関係による優劣判断でさえも否定している。

だって、目的論的解釈による優劣判断は、レヴィ=ストロースが否定するまで続いていて、レヴィ=ストロースが登場した後でさえ普遍的価値観として蔓延してるんだぞ。
ダーウィンはすごいっすわ。

ニーチェは、善悪の彼岸とか読んでたら、科学論については僕と全く同じ考え方してた。
ソコでもうポイント上がりまくり。
数学の世界のヒルベルトも、数学についての考え方同じだから、好きな数学者No.1だしね。

ニーチェは世界を「力への意志のせめぎあい」と説明した。
これも、一切の正誤善悪判断を削除して、「どこに向かうでもない」世界観。
そのどこに向かうでもないスカラーの世界で、唯一、超人のみがベクトルを持っている。
この力への意志のせめぎあいって、どっちが正しい等の座標軸設定をしていないんだよね。その点で、すっげえダーウィンと似ている。
だけど、ニーチェは反ダーウィンだったみたいね・・・(結局ニーチェは綱渡りの方向性を信じていた。)

力への意志より、進化論のほうが説明として『強い』。そう思います。

書いてたらダーウィンのがすげえじゃんって思いました。ダーウィン神

波動関数

波動関数はなにやっても解けない!!!確率が出てくるだけ!!!!!!!
じゃあ、なんで人間が観測したら答え出るんじゃ~~~~~~!?!?!?!?

フォン・ノイマン先生「それはね、未知数が1つ足りないからだよ。」

つまり?

フォン・ノイマン先生「『観測』という未知数が。」

ファッ!?

こいつ・・・・!!!!!!!!物理の式の中に、『観測』という人間の行動を入れようとしてやがる・・・・・・・・!!!!!!!
でもさ・・・・・・。
フォン・ノイマン先生って、悪魔の頭脳とも呼ばれたほどのヤバイ人だべ?
多分、公理と仮定(実験結果)が与えられたら、ハイパーな演繹で答え出しちゃう。そんで、多分その答えは前提からの演繹としては正しい。

じゃあ『観測』っていう物理量正しいんじゃね~~~

物理学者「は?(威圧)そんなの認められるか(半ギレ)」

ぼく「じゃあ公理と仮定が間違ってるんじゃね~~」

物理学者「天才かこいつ!!ノーベル物理学賞間違いなし!!!」



ここでクイズ!

Q:物理学とは何か?

一般人「真理(法則)の発見です!!!」
ぼく「ふ~んw」

ぼく「未来の予測です!」
ぼく「ピンポンピンポ~ンwwww」

そうなんだよね~。
物理学って、最初は自然を"理解"しようとしたところから始まってるんだよね~。
↑え!?それって真理の発見が目的ってことじゃないの!?
↑いや、違うよ。自然を、どうにかして理解しようとした。それで、「あ、自然はこういう感じに動くっぽいな」って思って、それを法則化した。
つまり、法則ってのは手段であって目的ではない。

この誤謬なんだよなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
世界は「物理法則に支配されて」動いている、とかさ。この文言。

ヒトは「神」などの超越者を創りだす習性があるなんてのは、歴史を紐解けば分かるな。
その超越者願望と、物理法則が一致してしまった。

物理法則を、神格化してしまった。

それは、ヒトが生み出したものとは知らずに――――


かっこいい
はい、話戻します。

つまり、物理法則と呼ばれてるものは、自然を理解し、予測する"手段"でしかない。

物理法則が自然を支配しているわけではない。

そう考えると、「波動関数は解けないけど、観測したら収縮する。」なんてこと、当たり前に思えない?
つまり、

「観測してない時の電子の状態はヒトにはわからん。確率的には"予測"できるけど。」

観測すれば収縮する(電子の場所・状態が分かる)なんて当然じゃない?

「物理法則が世界を支配している」と考えるから、
「世界を支配している波動関数が解けないけど、人間が観測したら解ける!!じゃあつまり物理法則+ヒトが世界を支配しているんだ!!!!!」
ってこと言い出すワケよ。

物理法則が絶対!!物理法則は神!!!!って思い込むことによる誤謬の話でした。

いや、別に観測(を起こす抽象的自我)を否定するわけじゃないですよ。
物理法則が確かに世界を支配している可能性も否定しない。
でも、「正しいかどうか分からない前提」を信じこんで、それでこういう議論が起こるなら、「その前提、正しくないかもよ?」って言ってやれば、解決するじゃん。

貴方たちに、この言葉を贈るわ。(ダージリンさん風)


593 名前:ひとは死なない :2013/06/07(金) 23:13:29.11 0
宇宙に法則なんかあるとおもってんのか、バカ理系が

やっぱりお前はうんこだな

前に
>分からないってのは個人的な感想でしかない。
って言った。これを検討。
分からないとはなんだ?他人は明確な根拠ありで真理にたどり着いているかもしれない。
もしかして真理を知らないのは自分だけなのでは?




2コ前の記事でこう言った。

「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生き、
 そして死にたいと思うような理念を発見することが必要なのだ」キルケゴール

実存主義。主観的真理。

救えねえ。

うなぎ論法でピュロン主義

最近、哲学ワードを並べるだけのツイートをたまにします。
あとでブログ書くときのために、メモ程度で考えたことの概略を忘れないように。

前の記事で、

懐疑主義者ってさ。
「真理はない」って言っちゃうと、じゃあそれが真理じゃね?って突っ込まれるから、「真理はあるかどうか分からない」って言うじゃん。
でも「じゃあその分からないってのが真理じゃん?」って突っ込まれるから、「真理はあるかどうか分からないかもしれない」って言う。
でも・・・・・・

と無限にやり取りを続けなければ自分の立場を正確に示すことはできない。


って言ったじゃん。
昨日知ったんだけど、

『うなぎ論法』 wikipediaのサンジャヤ・ベーラッティプッタのページより引用
霊魂の存在・来世の存在・善悪の行為の報いの存在など形而上学的な重要問題に対して曖昧な回答をし、判断を中止する態度をとったといわれる。たとえば、「来世があるのか」という問いに対し、「あるとは考えない、来世があるとも、それとは異なるとも、そうではないとも、また、そうではないのではないとも考えない」と、とらえがたい議論をしたという。このような論法を「うなぎ論法」ということがある。

『ピュロン主義』 wikipediaの懐疑主義のページより引用
同様に、ピュロン主義者は、「万物は虚偽である」とか「何事も真理ではない」とは言わずに、「私にとっては今のところ何事も把握不可能であるように思われる」とか「私は今のところこのことを肯定もしないし否定もしない」という慎重な言い回しを用いる。


な、なんやこれわ~~~~~~~~~~~wwwwwwwwwwwwww
両方同じ事言っとるwwwwwwうけるwwwwwwwwwwwwwwwwww俺も同じ事言ってるwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwドチャクソうけるwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

そんで思ったんですけど、この2つって両方すごい昔じゃないですか。紀元前か紀元後付近。
自分の行き着いた結論も、とうの昔に発見されていて、近代では論じられた形跡すらない。
つまーーーーーーーーーーーーり。
人類は一度、真理の探求を諦めたッッッ!!!!!
だがしかしッ!人類の知識愛は止まらないッッ!!
そこでッ!人類は真理ではなく、真理である可能性の高いものを探求し始めたのだッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!

諦めの姿勢である。
だから、近代では自我の存在を仮定してみたり、直感が真であると仮定してみたりして、「真理っぽいもの」を探してる。

現代の哲学に、僕の居場所はなかった。
だから脱構築とかが「破壊的な活動である」って言われて衰退していったんだよなあ。
そもそもみんなこの「諦め」を自覚してんの?
「真理には辿りつけないっぽい」ってことを知ったら、それまでの探求活動が無意味だったってなるから、それから無意識のうちに視線を逸らしてるのかな?

自分の哲学が「破壊」だから、過去の自分を否定することなんて常で、もう慣れっこというか、いやまあそのせいで精神に負担がとかはあるだろうけど、自分はそれを受け入れてる。

いやはや、困ったものだ。



追記

ピュロン主義は、「心の平静」(アタラクシア)に行き着いた。
サンジャヤから「うなぎ論法」を受け継ぎ、「無記」に発展させたブッダも、同様に「苦からの開放」を求めてのことだった。

生まれてきた時代間違えたかな

不確定なものを排除するのはその不確定なものを否定するというわけではない

不確定なものを排除しただけなのについ否定的に走っちゃうことあるよね。
無神論とか、ニヒリズムとか、不可知論とか、独我論とか。挙げていくとキリがない。
ここは意識的に直す必要があるね、すぐドグマに陥る。

何かについて疑問に思うっていうのは、自分がこれまでに形成してきた常識に反するものが現れて、それを自分の常識のなかに押し込もうとして生じる軋轢。
自分というものを、まるで湯気のようなものに変えれば、何も疑問に思わなくなる。すべてをありのまま受け入れる。

コギトエルゴスムって、批判はされつくしてるけど、否定はされきってないよね。
それに対して「否定の証明なんてしたらその否定したのは誰なんだよ」っていうシャンカラ的な「主体を否定するお前は何者ぞ!」になっちゃうなーと思っちゃったんだけど、本当にそうなのだろうか。
まあ分からない。「論理がないことを論じれば論理があるという証明になる」っていう古代の懐疑主義と独断主義論争のディレンマ論法に対する回避策「論じなければいい」で同じくどうとでもなるからいいけど。

前に
>分からないってのは個人的な感想でしかない。
って言った。これを検討。
分からないとはなんだ?他人は明確な根拠ありで真理にたどり着いているかもしれない。
もしかして真理を知らないのは自分だけなのでは?

そもそも「分かる」ってなんだ。
真理という宇宙的なものを個人的な「分かる」に押し込めていいのか?
他人は「世界が自分の目に見える形で実存し、自分も同様に実存している」って完全に信じ切ってると思うけど、その人にとってはそれが真理だよね。
クオリア同様、真理も私秘的なもの?
つまり、懐疑主義者だけが真理に到達してない?
真理の再定義が必要だね。
真理は十人十色かも。

>懐疑主義者は断言できない。かもしれない。かもしれない。かもしれない。・・・・・・・・・・

>死ね
>懐疑主義者は喋れねーじゃねえかクソ
じゃあつまり、「かもしれない。」の部分にlimをつけて∞に飛ばしたらそれは正確な言及になるのか?
で、結論自体に方法的懐疑かけると、結局それも分からない。
結論を懐疑するのはやばいね。全部否定できるんじゃね。
というか論理性が介在してるからそれ疑えばいい。

懐疑の3段階。
1.自分の認識を疑う。
2.論理性を疑う。
3.直感を疑う。

結局何も残らない。

トートロジーって真理なの?
いや、普通に考えれば真理だろうけど、実は真理じゃないんじゃね?
懐疑で全てを否定しま~~~~~すwwwwwwwwww

思考により真理を生み出すけど、その思考が湯気みたいなもんだからどうしようもない。

504 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/10/03(月) 01:35:46.60 ID:Jzr6ENdl0
>>497
過去はな
でも今こうしてディスプレイ見ながらカタカタキーボード打ってる「今」は確かに存在している
0.000000......1でも過ぎたら過去だ
俺は「今」確かに存在している

511 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/10/03(月) 01:38:43.96 ID:yznqzsAm0>>504
その認識はすでに過去のものだよ
「今」確かに存在しているって認識は後追いでしかない
人間は絶対に現在を捉えることが出来ない

っていうのがレヴィナスだっけ

時間論については>>504の立場だったけど、>>511見て思い直す。認識の根源を問い直すってのはいいことだな。
確かに「今考えてるぞ!!」って言ってる間にも時間は過ぎてくね。はあ。

ああ 「人生は無価値だから死のう」ってのは「人生は自殺する価値がある」って言ってることだから自己矛盾に陥ってるのか これまんまデリダの脱構築じゃん
価値ってのはマイナス方向の価値ね この文脈だと

ツイートからコピペ。哲学者を自分なりのやり方で理解するってのは重要だと思うよ。というか予め哲学者についての知識を持っといて(理解しなくてもいい)、あとで思索の中でその哲学者と同じ考え方をしてること多い。

「無記」で検索して、一番上のページを見る。
これって、懐疑主義や現象学の「エポケー」(判断停止・判断保留)じゃん。インド哲学にも現象学に似た考え方をしてたらしいシャンカラって人がいて、その人は「仮面の仏教徒」って呼ばれたように仏教の影響を受けてたらしい。
あと無記はウィトゲンシュタインの「語りえぬものには、沈黙しなければならない。」とも一致する。
シッダールタやべえwwwwwwwwww

最近考えたことをまとめました。
何も前進してないけど、「これでよい」(Es ist gut.)
カント嫌いだけどね。
懐疑主義もポストモダンも破壊的で積極的な価値を何も生み出してない。
ここらへん、自分と同じ。
自分の哲学活動を一言で表せば「破壊」です。

自己批判

>前々から思ってたんだけど、人間はこの世界規模のセカイにまだ適応してない。うん。
>鎖国しろって割と真面目に思ってます。

お前人間というものに対して脱構築できてねえじゃねえか死ね


>哲学は、前提を除去することによって徐々に前進してゆく。

前進ってなんだよ曖昧な言葉使うなや
これただの感想じゃねえかクソ


あと、自我が存在するかどうかという問いは、主体と問われる対象が一体化してるなあとか一瞬思ったんだけど、そんな証拠はないし、禅とかやると自我を外から見つめられるらしいし、その見つめているものが自我かどうかは知らないけど、自分の考えがクソ。

燃え尽き症候群のケがあるから、物理数学とか昔興味あったけど今全くないし(才能の限界を感じました)、得意分野の哲学に至っては懐疑主義者になっちゃたから停滞してるしでどうしようもない。
死ぬか

前提の除去

哲学は、前提を除去することによって徐々に前進してゆく。
懐疑主義はその最たる方法である。

私たちが無思考で受け入れている前提・公理を検討しなおし、削除してゆく。
不確定なものを取り除いてゆき、真である可能性が高いものへと近づいてゆく。

だが。
懐疑主義の結論なんて、ピュロンやセクストスの時代に既に出ており、前進してない。
デカルトも前進には至らなかった。
今の哲学は真理がないということを示そうとしている感じらしい。もちろん自己言及のパラドックスに陥る。

それでだ。
VIPも捨てたもんじゃない、こんなレスを見つけた。

63: 忍法帖【Lv=3,xxxP】(1+0:15) 2013/05/17 16:26:39 ID:YMHIh1/X0
なんで神が「存在する」か「存在しない」の二択で語ってるんだよ
それじゃ排中律の成り立つ論理体系の下でしか成り立たないじゃねーか
この世界はその体系だけじゃねーだろ
排中律が成り立たない論理体系や成り立つか分からない論理体系、
その他の体系でも示さなきゃ真に一般的普遍的とは言えないだろ

っつーかそもそも論理体系が無限にあったら神の存在性は証明不能
あぁ証明が定義されていない論理体系はどうしよう
そもそも定義の存在しない体系は・・・

結論:かみさまたすけて


つまりは、
「普遍の真理とは存在しうるあらゆる公理系のもとで真であるもののことであり、前提の除去はその一つの手段でしかない」
ということ。
全ての公理系の検討が有限の立場より不可能なので(ここでは便宜上不可能という言葉を使うが云々)、公理を取っ払えばいいじゃんってのが前提の除去。

で、その真理が何かが「分からない」と。
ではこれを答えにすればいいのでは?と思うかもしれないが、それは「自分が分からないってことを分かってる」ことであるし、証明もされていないし、他人は分かってるかもしれない。
分からないってのは個人的な感想でしかない。

完全にネガティブ入ってる。
おわり。

クオリア・スイッチ/脱構築

前の続き。

前回は
>僕はこれに全面同意はできないけど(理由は色々ある。今度述べるかな)、
とか言ってどや顔してましたけど、今では完全同意です。
これ書いたときは、「クオリアの議論は、クオリアが『ある』という前提で議論している」から、そこに「クオリアなんてないからwwwwwww」みたいに言っても「いや、そういう前提で考えてるだけだから。」って返される。
って考えてたんですよ。

でもでもでもでもwwwwwwwwwwwwwwwそんなの関係ねえwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
じゃなくて。
脱構築ですよ脱構築。デコンストラクション。
静止した構造と見做されていたものを、動的な、絶えず変化する構造として捉え直す。
これって、クオリアの議論に時間の概念を持ち込むことに似てませんかね。
そもそもクオリアがないなら議論の必要がない、ただのお遊びだし、物理主義・唯物論はクオリアの否定を目指してるんだったね。
クオリアがあるかどうかは分からないけど、こういう思考実験によって「あってもなくても関係ない」ことが示せるわけだ。

そうそう。脱構築の話だけど、本質的に理解したのは、生物学のことを考えていたとき。
テレビで、北極の氷が溶けてホッキョクグマが~みたいなことやってた時に、生態系保護に対しては大きく3つの立場があると思った。

①現在の生態系を何が何でも保持する。
②人間も自然の一部とみなし、環境破壊も自然活動とみなす。
③人間の活動が一切自然界に影響を及ぼさないようにする、徹底的不干渉。

世間一般で言う「生態系保護」って①の立場だよね。
で、これは地球の全体的・周期的な変化が起こった時に破綻する。破綻しないためには地球をすべて人口の何かで覆うかでもしないと。

②については、なんで世界がこれに反対するのかって言うと、それだと自分たちが生き残れるか分からないから。種の保存への本能的力。
生態系は、何かが欠けたら何が起こるか予想がつかないところがあるから、ただ人間の存続のみを考えても失敗する可能性が高い。
環境を保護しようっていうのは、自然の人間に対する優位を問いてるわけだ。でも②だって、人間を特別視しない、我々は自然の一部だとする自然>人間の立場をとってる。ここは面白い対立。

で、③ですよ③。
正直無理ですよね。呼吸をすることだって自然界への干渉。宇宙に出て行くくらいしか選択肢ない。本末転倒。
これは理想中の理想だけど、無政府主義と同じように実現不可能。ここでは便宜上不可能という言葉を使いますが、僕は懐疑主義者なので、可能性は無きにしもあらずではある。
だけど、ホッキョクグマが氷が解けることに適応せずに死んでいくのはある意味当然のことであるし、そこに干渉していくのもどうかなという気もする。
予備校の物理の先生も今日同じ話してた。

ホッキョクグマが、氷が解けたせいで必死に泳いでる姿を見ると、「なんかかわいそう」って気持ちになる。それが積極的干渉・保護になっていくんだろうね。
動物を見てかわいそうと思う本能(環境依存かも。本能か環境かの議論は幼児を実験台にしないといけないからクローン技術が発達しないとされないだろうね)は、人類が昔から狼に肉を分け与えて、今のイヌとヒトの関係を作ってきたみたいなところから来ているんだろう。でもそれが地球規模になってしまったせいで、線引が難しくなってる。
前々から思ってたんだけど、人間はこの世界規模のセカイにまだ適応してない。うん。
鎖国しろって割と真面目に思ってます。

そんでまあ、話戻すけど、
①は自然界を静止した構造として見ている。
②、③は自然界を動的な構造として見ている。
これが脱構築だ!!!!!

今日は珍しく形而下学の、実学的な話でした。おわり。
プロフィール

わふー

Author:わふー
縦令真理を教えてくれる神がいようとも、それの語ったところは僕にとっては真理ではないのです。

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